⑤と⑥の遺書の共通点は、彼女たちの死を伝える記事の中に「女中」という単語を見いだせることである。
今ではドラマや映画のなかでしか聞くことがない言葉「女中」。
詳しく知るために小泉節子編「女中がいた昭和」を読んだ。
女中は家事手伝いをする女性のことで、その多くは住み込みで働く若い女性であった。
(遺書本文はこちら)
職業というより、行儀見習いのため、花嫁修業のためという意味あいもあった。
明治末~大正期は役人や会社員などの中流階級が増えた。 彼らは生活の中に洋服や石鹸と洗濯板を使った洗濯など、洋式を取り入れた。
しかし、和服と洋服では洗濯の仕方や修繕の方法と異なり、 洋服と和服を併用するとなるとそれだけ手間も増える。
そして、洗濯器や炊飯器のない時代においてはもともと家事は大変なのだ。
そこで手伝いが必要になる。
この時代の中流はさほど裕福でなくとも女中がいたという。
医者の家で女中をしていたという⑤の少女たちはもちろん、⑥の文中にでてくる「青山」もまた中流階級の住宅地であったことを考えれば青山で使われていた女中であった可能性は高い。
女中たちの中には主家から可愛がられたものもいたし、実家が貧しい場合、教養ある都市の中流家庭の暮らしぶりに憧れを抱いた女性もいたようだ。
しかし、主家の男性の性欲の対象とされることも多くあり、イタズラや暴行など性被害にあうこともあった。その結果、性病を移されたり、妊娠してしまうケースもあった。
戦前の婦人雑誌には主家の男性から誘惑された女中による手記が掲載されていたり、読者相談の欄には夫と女中が関係したことを嘆く相談が寄せられている。
しかも、主家側がその責任をとってくれるかというとそうではない。妊娠した場合、手切れ金を渡して家から追い出してしまうことが多かったようだ。女中がそれだけ弱い立場であったことがわかる。
そのせいだろうか、高等女学校が増え、女性の職業選択が増えた大正時代には需要に対して供給=女中志願者の数が減り女中不足となったという。
しかし、経済不況の1930年代には女中志願者は急増した。
⑤と⑥の遺書を残した少女たちの場合はともに奥様とのイザコザが背景にあったと推測できるが、言いたいことも言えない弱い立場であるという点においては、変わりない。
雇い主や上司に対する不満を言えずに呑み込む人々は現代にも大勢いるであろうが、そんな人たちも職場から一歩でれば、憂さ晴らしや息抜きをしているのではないか。
しかし、彼女たちの場合、主人一家と同じ屋根の下で寝起きを共にするため、息抜きもしにくかろう、これは、思春期の少女にとってはキツいものがある。
しかも、⑤と⑥が書かれたのもちょうど1930年代であることを考えれば、勤め先を変えようとしても、次を見つけるのは難しく苦境に耐えるしかなかったのではないか。
しかし、その間に行き場のないストレスは溜まっていく・・・そして、ついに自死を決意したのではなかろうか・・・。